PENの備忘録

主にアドラー心理学。

アドラー心理学との出逢い

考えあぐねた私は、背もたれに体を預けた。
どうしたものだろう、このブログを。
なにかを連作で書き始めようと思い至り、勢い余ってこの場所を開設したところまでは良かったが、そこで指が止まった。
私の暮らしは、言ってみれば生活資材をコロニーに運び込む働き蟻の日常と同じ類いのものだ。
何とか細胞を発見したわけでもないし、社会不正を告発して打ち倒すべき難敵も、残念ながら閃かない。
ペンを片手に思い悩んだ挙句、ふと、遺書を書いてみるのはどうか、と思った。
面白いアイデアだと思い、顔がほころんだが、「自分の理想の葬儀」を熱弁する段になって寿命が縮まりそうな気がして中止した。正気ではない。
やはり書き残しておかねばならない程の事柄があるとは思えないのだ。
しかし、そうだ。
そのとき、私の頭に煌いたのが、このところ三年ほど私が学んできた、とある心理学のことだった。
 
記憶は遡り、2014年の春。
Amazonでは、ある書籍に星満点の評価が立ち並んでいた。
その画面を睨みながら、私は脳裏に浮かぶいつもの想念を感じていた。
いわく「きっとこの本によって社畜人生が変えられるだろう……順調に出世を繰り返して……田園調布に一軒家を建てるほどの新たな局面を迎えてしまうに違いない……そして閑静な住宅地で老後を迎え……」と。
何度となく、同じ期待のもとに、自己啓発本を見かける度にこうした思いを繰り返してきた。
性懲りもなく下心に突き動かされた私は、「嫌われる勇気」を手に取った。(正しくはクリックした

100万部以上の売上を記録した、この一冊を知っている人は多いだろう。
著名なベストセラーであり、最近では香里奈を主演としたドラマにもなっている。
私はいつものように宅急便の宅配日時を指定した。
そのときは、この心理学との付き合いがこれほど長くなるとは夢にも思わなかったのだが。
名前を「アドラー心理学」と言う。
理論は巧妙にして深遠、平易にして汎用、その応用性は限りなく、学究の門戸は誰にも鷹揚に開かれ、前途洋々の……この辺で良いだろう。
これが私とこの心理学との始まりだった。

私の理解は、基本的には日本アドラー心理学会の理解に依拠している。
アドラー心理学には、まるで修行僧のように、自分の考え方を深めていく自己啓発の側面がある。
同時に治療の側面を持ち合わせている。
ここでの治療とは、カウンセリングによる問題解決を指す。
アドラー派のカウンセラーは、やってきた相談者に対して「今日はどうしましたか」と尋ねて、日常の問題を聞き出していく。
たとえば、誰それと仲良くすることができず困っている、と持ちかけられる。
その話を聞いて「相談者個人の私的な考えかた」や「生活環境」を明らかにする中で、トラブルの勘所を探る。
そうして相談者の思考を追い込み漁のようにある方向へ引きつけ、最後に「ではどうすればいいでしょうか」と言って、誘導尋問的に提案を行う。
相談者の生活に生じている問題をアドラー心理学の公式にのっとって解決に導いて行く。

おって詳説する予定なのだが、ここで言っているカウンセリングには、二段階の深度がある。
「相談者のその場限りの考え方に対応する簡易技術」と、「相談者の人生の底流にある考え方に対応する高度技術」である。
それぞれに方法論が違う。
内容を説明すると込み入った話になってしまうので今回は差し控える。

修行の側面では、これら問題解決プロセスを、相談者に対してではなく自分の実生活に当てはめて運用する。
自分の問題を自分で解決できるように公式を身に付け、鍛えていく。
Amazonでの出逢いから三年、私はこの「修行」をずっと繰り返してきた。
田園調布には、まだ一軒家は建ってはいない。
それどころか、住まいは変わってすらいないし、こうしてPCに文字を打ち込む姿は、あの頃と何も変わらない。
しかし、どうだ。
この心理学と出逢ってから今まで過ごしてきた時間には、あのとき夢想した生活を上回るだけの価値が確かにある。
今ではこう思う。

人生は、出会いで決まるのだ。